Night of reunion
(あの子だ、あの子だった・・・・っ!) ベーカー街221Bのアパートの自室で、ウィリアム・H・ワトソンは自分の机に突っ伏していた。 机の周りには、残念ながら綺麗とは言い難い・・・・否、惨状というほうが相応しいぐらい書類やら本やらが散乱しているが、本人はこれでどこに何があるかわかると言い張っている。 まあ、その言葉通り一番重要な、自分達が手がけた事件についての記録を残しているノートは、今ワトソンの目の前に広げられているのだから、問題ないのかも知れないが。 しかし、肝心の事件を書き込むはずのノートには、今日の事件を記すべきページを開いたまま、まったく何も記されてはいなかった。 その原因は、言うまでもなく記す本人がそこに突っ伏しているせいなのだが。 (あああ、こんな事してる場合じゃないよな。明日は学校もあるし、早く記録をまとめないと・・・・) やっと我に返ったワトソンは顔を上げると、羽根ペンをインク壺につけた。 まず最初に書き始めるのは、今日の日付。 そして。 「事件発生場所、バッキンガム宮殿。依頼人、レストレード警部および女王陛下、っと。」 ―― そう、今日は実に慌ただしい一日だった。 何せ学園も休みで珍しく依頼もないとのんびりしていたところへ、レストレード警部から緊急事件だと呼び出しがかかったのだから。 (ほんと、何かと思ったよなあ。) 緊急事件で場所がバッキンガム宮殿と聞いた時には、どんなとんでもない事態が起こったのかと思ったものだ。 その時の気分を思い出して苦笑しながら、ワトソンはペンを進める。 (ホームズと俺は午前中、急の呼び出しを受けてベーカー街からバッキンガム宮殿へ駆けつけた、と。) 今日のバッキンガム宮殿はシャム王国との国交を記念した式典でパーティーが行われるというのは知っていたけれど、幾台もの貴族の馬車が行き来して、それは華々しい雰囲気だった。 そんな中をすり抜けて、宮殿へ入って・・・・。 (すごいパーティーだなって思ったんだっけ。そりゃ、当たり前っていえば当たり前だけど。) 女王陛下主催のパーティーだけあって、招待客達はこぞって最新のドレスに身を包み、ちょっと目がちかちかしそうなぐらいに、華やかだった。 もちろん、そう言うのにまったく興味のないホームズは人ごみがうっとうしそうで、どこかその辺の貴族にぶつかって騒ぎにならないかと気を揉んだものだ。 (でもホームズは大丈夫だったっけ。) そう、ホームズは意外に器用に人を避けていって、それはよかったのだけど、その時不意に近くで小さな悲鳴が聞こえて。 ・・・・あの時、零れそうになったシャンパングラスに手を伸ばしたのは、ただ咄嗟の事だった。 シャンパンが零れてドレスにでもシミをつけてしまったら、せっかくのパーティーが台無しだ、とそう思っただけ。 でも今はあの瞬間にシャンパングラスを受け取れるぐらいの反射神経が自分にあったことを、神に感謝している。 だって、グラスを受け止めて、彼女に渡そうと改めて声を上げた少女を見た時 ―― (―― 心臓、止まるかと思った。) グラスを落としたと思ったせいだろう。 ぎゅっと瞑っていた瞳が、ゆっくりと開いて大きな空色の瞳が姿を現した時、本当に心臓が止まるかと思ったのだ。 5月の空のように澄んだ青い瞳、波打つストロベリー・ブロンド。 一瞬で、ワトソンの目には目の前にいる少女に、記憶の中にずっといる少女がオーバーラップした。 田舎の緑の中で、泣かないようにぎゅっと小さな手を握りしめていた、あの空色の瞳の。 (あの子、だった。) 丸っこかった顔のラインは年頃らしくすっきりとして、美しいドレスに身を包んでいたけれど、瞳はちっとも変わっていなかった。 驚いたように目を丸くしたその奥には、しっかりとした意志が感じられる空色の瞳。 けれど、咄嗟に普通の反応ができたのは、彼女が自分を見て何か気が付いた様子がないことに気づけたからだ。 彼女は純粋にビックリした顔をしてワトソンとホームズを見ていた。 「・・・・まあ、そう、だよな。」 思い出してそう呟きながらも、知らず知らずにため息が零れる。 (子どもの頃1回だけ会っただけなんだし。) 覚えていろと言う方が無理なのだとちゃんとわかってはいるのだが、それでも胸の内に切ない気持ちが生まれてしまう。 それを振り払うように、ワトソンはまたノートに向かった。 「続き、続き。・・・・えーっと、依頼内容、シャム猫のチェルシーの捜索。1時間前に逃げ出したチェルシーという名前のシャム猫を見つけてほしいと女王陛下よりの依頼。レストレード警部達には皆目見当も付かなかったらしくホームズが呆れる。その後、女王陛下直々の指名で、偶然居合わせたパーティーの参加者の・・・・」 そこへきて、またワトソンのペンが一端止まる。 女王陛下が部屋に現れて事件の説明をしてくれていた時に、壁際のカーテンの影にピンク色の影を見つけたのは、ワトソンだった。 多分本人は綺麗に隠れているつもりだったんだろうし、他のみんなは女王陛下に意識を向けていたから気が付かなかったんだろうけれど、多分、無意識にワトソンはさっき出会った少女の事を思いだしていたのだと思う。 だから、部屋の隅にちらりと見えたドレスの裾を見つけて・・・・結果的に、彼女は事件に巻き込まれることになったのだ。 (なんか、ほんとに変わってなかった。) 女王陛下と言葉を交わす彼女の姿を思い出して、ワトソンの顔が緩む。 はきはきと女王陛下に受け答えする様、女王陛下の役に立ちたいと一生懸命訴える様、どれもが思い出の少女と合致していった。 (一生懸命だったな、あの時の彼女。真っ直ぐで一生懸命で。) そして。 『エミリー・ホワイトリーよ。名前で呼んでもらってかまわないわ。よろしくね、ワトソン。』 にっこりと笑った笑顔を思い出して、また鼓動が早くなった。 「エミリー・ホワイトリー・・・・か。」 口に出して呟くと、なんだか甘酸っぱい果物を食べた時のような気分になる。 そのくせ、口元は堪えようとしても笑ってしまうのだ。 (ホワイトリー家の関係者だろうってことは予想してたけど、) 数年前、あの女の子に出会ってから彼女と出会ったであろう場所のことは調べて、ホワイトリー家の領地であった事はもう知っていた。 けれど、それ以上の事はずっとわからなかった。 森を駆け回っていたわけだから、使用人の子かなにかかと思っていたけれど。 (ホワイトリー家のお嬢様だったとはね。) ホワイトリー家は8年前の事件で当主夫妻を失って以降は、カントリーハウスに戻ってロンドンには出て来ていなかった。 だからその関係の人間を知る者も少なかった。 (でもきっと、今日のパーティーにいたってことは、ロンドンに戻ってきたってことなんだよな。) それがなんのためなのか、今のワトソンには知る術はない。 でも、とにかくもう一度会えたのだ、彼女に。 「また・・・・会えるかな。」 貴族のお嬢様だったのは大分予想外だったけれど、エミリーはワトソンの記憶にあるとおり、お転婆で好奇心旺盛そうだった。 だから、もしかしたらまた、自分達の関わる事件にうっかり首を突っ込んでくるかもしれない。 「それはそれで、ちょっと心配なんだけど。」 少しだけ苦笑してペンをくるり、と回す。 (でも、そうなったとしたら・・・・今度こそ、泣かなくてすむように守りたい。) ずっと想像していたとおり、今日、沢山見せてくれた笑顔がエミリーには一番似合うと思ったから。 ぐっとペンを握る手に力をいれて、ワトソンは書きかけだった文章の続きを書き入れた。 「パーティー参加者のエミリー・ホワイトリー嬢の提案によって、見事チェルシーを保護。彼女のその行動力と機転にホームズも感心する。願わくば・・・・」 (願わくば) 「どうか、彼女が謎と真実を追う探偵になってくれますように。」 ―― そうすれば、きっとまた会えるから。 小さな願望を含んだその言葉が、まさか数日後に本当のことになろうとは、ワトソン自身予想もしていなかった、ロンドンのとある夜のお話。 〜 END 〜 |